カッコが多く再チェック要す すみ
昭和44年10月23日 月次祭
ただ今御祈念にかからせて頂く前に、福岡の秋永先生の奥さんがあの、こう言う様なお届をしておられます。今朝方お夢を頂きましたと奥さんのお里所謂杉山家ですが。杉山の亡くなりましたお父さんがお夢の中に現れておられます。そしてもう盛ん紫檀ですね。こういう〔紫檀〕とか〔黒檀〕辺りの道具を沢山集めておられる。すと是からは一つ花梨の小道具を集めようと、あの紫檀黒檀花梨。
三味線の〔胴〕なんかは、花梨胴が一番と言われてある。竿は紫檀。紫檀竿に花梨と言うように、もう最高の木でございますよね。皆さんも御承知のように紫檀黒檀の例えば家具類というのはもう、世界で最高の家具類です。いわゆる、その最高な木なんです。それを沢山集めている。ね、小道具にいたるまで花梨の物を今度からは集めようと言うておられるところ。
私はまあ親というのは、まあ親に通ずる事ですから、御霊様の事もありましょうけれども、それはまあ私の事ではないでしょうか。皆さんが親先生と言われる、親先生の事ではないでしょうか。紫檀とか黒檀とかと言うのは最高の木と言う。木は心と言うから、最高の心を目指しておるという事だとこう思う。しかもその最高の心によって出来あがる物道具ですね。最高の心によって頂けれる所の様々なおかげと。
それを小さい例えば小道具に至るまで、そういう銘木を使っての小道具を作ろう、また集めようという意欲に燃えておるという意味においては、私はもう誰にも私は負けないほどしに、そういう願い意欲私情が出けませんのですけれどもです、そういう願いを持っております。ね、私は日本一ひとつ本気で有り難い私にならせてもらおうと、というのがそれなのです。ね、
本気で私が有り難くならせて頂くという為にはです、どうでも私が、いわゆる私の木、私の心。ね、私の心が最高を目指さなければ出ける事じゃありません。ね、有り難くなりたい、有り難くなりたい。信心とは、もう有り難くなるけいこだと、極言しても良いと思います。ね。どのような場合でも有り難いと。どちらへ転がしても有り難いと、というような心を頂かせて頂く為にお互い精進させて頂いておる。
その精進をです厭わず。そういう願いをいよいよ深く大きく持って行こうという事は、それは秋永さん私の事じゃろうと思うと。私が願い私の願いだと思うと。そこでんならここで信心の稽古をさせて頂く人なの。ここで信心の御縁を頂いておる人は、矢張り私の信心に習うて下さらなければならんのだとね。それには、やはり私が本気で有り難くならせて頂く事を焦点にしておるなら、皆さんもやはり有り難うならせて頂くけいこを本気で、いわば共々にさせて頂かなければならんという事になりますね。
今朝からの御理解の中にも。この方は無学でも人が助かっておると。ね。学が身を食うと言うが、ね、学者が身を食うと言う。ね、この方は無学でも人が助かっておる。真がなからなければ人は助からんという、99節の御理解を頂きました。それが、百節に繋がる、いわゆる、めでた、めでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言うではないかと。生神金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃとこう。
家繁盛の道、子孫繁盛の道と言うから、なら商売はこんな風にしてやれ、百姓はこんな風にしてやれと言うて、その、言うならばお米の作り方とか、商売の商いの方法を教えると言うのじゃない。子孫繁盛と言うのはどこまでも、これは百姓であろうが、商売人であろうが、いわば全ての人間がです。ね、全ての人間が、ね、ここのところを土台として頂かなければ、どういうように。
例えば商売がよし繁盛しても、農作物がどのように立派に出来ても、幸せとは繋がらないのだと。幸せの条件ではある。家が立派である事も、健康である事も、お金がたくさんあるという事も。幸福の条件ではあっても、その条件である金とか物とかと言った様な物だけでは、人間の幸福と言うのは許されない物だと。幸福と言うのは、とにかく神様に許される物なのだと。
いわゆる、子孫繁盛家繁盛は誰でも願わない者はないのだけれども、願うならなら生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと教えられますから、その道を教えて頂こうという姿勢を持たなければならんというのが、今朝の御理解。なら、その姿勢はどこに置くかと。ね。だから、真で人が助からん事はない。真がなければ人は助からないと、99節に仰せられておりますようにです。
どんなに学問があっても、むしろ学問が身を食うという事がある。わずかばかりの学問がです、ね、災いをする。今日も、さきほど夕方、しばらく日吉永吉さんとここでお話をした事でした。もう本当にこれは私は、もう毎日毎日不思議でたまらんち。昨日、何人もの私は盲腸手術のお届けをさせて頂いたが。例えば、その中の高山さんのお孫さん、小学校の一年生でしょうか。ね。母親がお願いに来ました。ね。
おばあちゃんもお願いに来ました。ね、手術にかかって、とにかく医者がたまがる事はですね、もう全然苦痛を訴えないという事。それがね、目を覚ますと盲腸の手術をする前に、お腹を全部空にしてますから。普通なら、もうひもじい、ひもじいとこまごつ言うて、何とかかんとか言うのだけれどもですね。あのまあだ食べられんとじゃろうち言うちから、ジュースを求めるんです。でジュースをやると、飲んだらもうすぐスヤスヤ眠ってしまう。夜は全然付き添いがいらんち。
もうこげな事こげな不思議な、そのには初めてだと言うてその、お医者がたまがるほどしにおかげを受けておる。痛さを感じないだから私がお母さんがお届へ来た時に。はあたった一年生のようなこまかつが腹切らにゃん。ほらあもう本当痛かろうけん、痛くなかごとお願いしようねと言うてからまあ申しました事です。だから日吉さんもう痛い痒いは、これはもう絶対神様の自由自在のごたるばいち私は申しました。
先日から久富さんところのお孫さんが尻にこう、沢山火傷しました。もうその日から全然痛んでいない証拠に走ってまわりよった。ところが2日たちまして、ちょうど久富さん、その晩は泊りがけで御用しておられた。ところがその朝奥さんが参って見えてここで呼ばれてからでしょう。もう夕べは善虎がもう一晩中、痛か痛かち言いや寝せじゃったちいう。
それから、その、その善虎くんのお母さんが敏子さんち言います。もうあれがもう、明日帰るとこう言う。だから、その、痛い痛いして泣くもんじゃけん。こんなつばまた連れて帰っちゃその、婿になりますとりも済まんしですね。これはまああの一日二日泊まって。そしてまあ痛がらんごとなるまで、おかげ頂いてから帰らなければ、帰ってから、お前は里帰りして御大祭御大祭ち。
御大祭に参ってこげな事になってち言っちから、かえっておかげを落とすような事になっちゃいけんから。ね。そんなに痛むなら、まあ一日二日、俺がここから電話をかけとくからと言うて重雄さんここから、その娘婿さんに電話をかけられた。そして泊まることになった。重雄さんが帰られた。それから又いっちょん痛いとも出らん、遊んで歩く、晩もゆっくり休むというようなおかげを頂いておる。
この辺に不思議不思議でたまらん事がありますね。例えば娘を、一時、一日でも二日でも余計おいて、善虎、孫である善虎さんを一日でもよけいおいて、久富の家におると腹を決めりゃ痛まない。帰ると言やあ痛いち言うんです。自由、そこにきゃ分かるでしょうが。ね、せっかくあれ聞いたからせっかく信心の徳を持たせてやりたいというのが親心。
お土産はのうても、今度帰らせて頂いて、大祭のお土産はこれじゃったというような物を持たせてやりたいのが親心。その親心にちょっと外する事を気付かんなりではあっても、帰ろうという事になったら、一晩中、寝せなかった。今朝からお出でに見えましたから、また聞かせて頂いたんですけれども。おかげで私は帰りましてからこっちは、全然おかげを頂いて、痛いという事を申しません。
もう本当にその、痛い痒いという事でもです。神様が自由自在になさるんだと。もうここの辺は理屈じゃない。さあ、そこが学がありますとですたい。そげな馬鹿な事があるもんかと言うて、自分の少しばかりの学問を振り回そうとするのです。ですから、その学問があって、そこが分かり、神様の神愛無限である事は、神の神力無限である事を信じて学問を持てば、これはもう、いよいよ鬼に金棒なの。
そこで最近は教学と言うて、信心の学問という物を一生懸命、学問をした方達はなさっておられます。そういう学問をなさる方達が合楽に来て、お話を頂いてビックリする事はです。ね、私はぜんぜん学がないから、まあそれこそ、さっきも話した事で、口から出任せの事ばっかり言いよるけれど。その口から出任せの事がです、ね。もうこれはこのままが合楽教団だと言われるくらいにおかげを受けておるという事です。
真理が説かれ、法則が説かれております。人間の真実幸せになる、本当の事が、手探りじゃない。ね。当て薬じゃない。これで効くじゃろうか、効かんじゃろうかと言った様なもんじゃない。もう絶対効く絶対頂けれる。そういう物をここでは皆さんが毎朝頂いておられる、毎日頂いておられる訳なのであります。そういうおかげの受けられる絶対の道の中の一つとしてです。ね、
今日の99節の真がなからなければ人が助からんという事は、真がなからなければ人が助からん所か、自分自身も助からんのだという事。真がなからなければ自分自身も助からないのだと。ね、そこで人間真実幸せになろうと思うなら、この真を追求して行けという事なの。所が手探りでどこが真やら、どれが真やら分からんのである。ね、それを今朝なんかはもう私は初めて、先程これも日吉さんと話したんですけれども。
もう日吉さん私は親先生と大坪総一郎ち言うとは違う。朝での御祈念御理解を説かせて頂きながら、今日は親先生の御理解の素晴らしかったこと。有り難かったと私自身が思うておるのですよ。日吉さんが言ってます、ね、この人はどっちかち言うと教学派の方で、勉強がなかなか出来ますから。やはり信心を教学的に考える人なんです。だから今日吉さん達が幾人かで中心になって、今教学研究会を御理解研究会をやっています、ここの御理解研究会を。ね、教学的な裏付けをして行こうと言うのです。
そういうなら私も毎朝毎朝、あれを楽しみにお参りをさせて頂くが、お話を楽しみにしてお参りをさせて頂いておるが。どうして先生のあの中から、ああいう例えば珍しいお話が、素晴らしいお話がどこから出て来るやろうかち言うて。私も思うようあんたが思うように私も思うとるのだから。ね。今朝なんかは、もうずいぶん真、真という事は解き明かし、聞き明かししてきた、お互いが。ね。
ところが今朝の御理解を頂いておりますと、真とはねみんなが持っておる物だということ。ね。その真とはどういう事かと言うとね、有り難うございますというお礼心だとこう言っておられとる。お礼心即真なのだ。ですからどんな人間だって、ね、何かその人が嬉しい物をあげるとですね、いやあすいません有り難うございましたと、こう言うでしょう。その有り難うございましたが真であると、今日頂いた。その真をね育てて行くという事が信心なのだ。
昨夜久保山さんのお導きで、善導寺の馬場さんっていう方がお参りになった。丁度一年前「もう何箇所?」でもう医者は難しいと。それを聞かれてもう久保山さんがいち早くお届けに見えまして、御神米を持ってお見舞いに行かれた大変喜ばれた。ずうっと枕の下にその御神米を頂いて養生させて頂いた。おかげで助かった。今でもその御神米をここに、こうして頂いておりますと言うて、昨夜その事をお礼申しておられました。
久保山さんの信心のおかげで助かりました。それでどうでも一つお礼参拝をさせて頂きたいと思いまして、今日は久保山さんにお願いしてお礼参拝をして来たと言う。それなんだ真とは。ね。けれどももう一遍に行ったけん、もうこれで済んだと思うところに、真はプツッと切れる。信心とはそこからその真が育てられて行かなければならない。そのところをあらゆる角度から、ここではまあ頂かせてもらう訳なんですね。
昨日岩井千恵子さんですね、いわば元の原千恵子さん。原さんの娘さんがね。結婚記念日に当たりますのでと言うて、お礼にお参りして見えた。ね。これがね普通から言うなら、これはまあ言うなら当たり前。ところが、ね、3年立つか立たないくらいだったでしょうが、ご承知のようにご主人が亡くなられた。亡くなられたご主人とも結婚の記念日が昨日に当たっておった。
さあ亡くなられた時には、もう本当にもう千恵子さん一生一度の、いわば悲しい事であったに違いないけれどもです、段々そこから分からせて頂く信心がです。あの時は目の前が真っ暗になるほどに、悲しい事でしたけれども、親子ともこのようにしておかげを受けておると。おかげで子供をなしておったおかげで、私の生き甲斐がありますと。とその事が結婚記念日のお礼という事になってきた。
これはもうそのお礼と言うのが、段々高度な物になってきた。それを「メタ?」のご理解を、まあ例を引いての、今朝の御理解でしたですね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、真の信者じゃ本当の信者じゃと「カナ?」打ってあります、真と書いて。ね。本当の信者じゃと。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃとこう言う。ね、
そこで例えば昨日のその馬場さんの場合は信心のシの字も分からないのだけれどもです。おかげを頂いたという事が、お礼参拝させて貰わなければ相済まんというお礼。だから信心がない者でも真があるていう事が分かるでしょう。お礼を言う心は皆にあるんだ。けれどもそれが断片的に切れて行くから一つも真が育たない訳なんです。信心させて頂く者は様々な道理を聞かせて頂いて、分からせて頂いてそういう事になって来る。
久留米の初代の石橋先生が、ね、当時のそれこそ高徳の先生が、ばかりがズラリ並んでおられる。御直会の席上で、いわゆる、大先生であるところの桂先生が、石橋先生に向かって仰った。石橋さん、あんたんげの息子は馬鹿じゃんねと仰った。ね、子供の時に少し頭をやられなさってから、少しその、やっぱ頭が遅れておられるという感じだった、二代の先生は、光男先生が「申し上げる」。
だからそれを、その指して仰った訳なんですね。石橋さんあんたんげの息子は馬鹿じゃねち仰った。もうそれこそすかさず石橋先生が仰っておられる事は、親先生おかげで信心が出来ますと仰った。おかげで信心が出けます。息子がこう言う様な二代のいわゆる久留米を継がなかならん、この人がこういうような事でございますから、親が一生懸命信心せん訳には参りません。おかげで信心が出けますと仰った。
石橋さん出かしたと言うてから、一番口に、その御直会のお盃を回された、というお話が残っております。私共引き上げて帰って参りましてから、一ヶ月もしました時でしたですか。弟のこうほうではない、戦死の知らせを受けました。それこそ一家中の者が、何の為に信心しておったか、神も仏もあるもんか、と思うようにあった。母なんかは、それこそお社にごうぐってから。
もう死なせてくれ、とは頼ませじゃったと言うてから、その申しました。それこそ狂わんばかりの親の嘆きでございます。ね。けれどもやはり、既設してみんな集まったのは御神前であった。御神前にそれこそ一家中、長い長い御祈念をさせて「頂いた」。そして御祈念を終わらせて頂く時には、これは神様の御都合に違いはないという事であった。ね、これほど願って、おかげを頂っ。
しかも終戦じゅう、8月15日が終戦。それに7月30日ですから、ね。もう15日、神様が生かしておって下さりゃ、7年も8年も戦地に行ったっきりの弟は無事に凱旋出来たんだけれど。ね、15日すりゃあ戦争は終いるのに、神様はお引取りになっておられる。けれども、そこんところを神様に日頃の信心に、それこそ物を言わせて、神様の御都合に違いはないと、また奮い立つ心を持って信心が続けられ、その月から私の御本部参拝が始まっておる、月参りが。ね、
その上にそういう事を踏まえての信心がこう、出けて行く。ね、次の信心に飛躍して行く。そこでならどういう事になって来るかと言うと、私の弟は大作と言いよりました。大しゃん、大しゃんち言いよりました。大しゃんあん時は大変な事だったけれども。あのおかげ頂いて、こげなおかげを頂いたと。あれで元気が出たんだと。あんたが亡くなった事は悲しい事だったけれども、あれを境に、家中一家中の者の信心がこのように変わったんだ。という事になって来た時にです。
そこになら御霊としての私の「親身」が、いわば犬死ではなかった事を喜ぶであろうと思います。ね。同時にその事は苦しい事であったに違いはないけれど、その事のおかげで信心が出来、石橋先生じゃないけど信心が出けますと言う所ね、だから千恵子さんの例を取るとね、三年前のそのじゃない亡くなられました事がですたいね、あの事もやはり悲しい事ではあったけれども、あの事をおかげにして行かなければならん。
また、おかげになっておるという、あの事が、あれもおかげになった、おかげであったという事が分かって来た。だから、これもおかげであるという事。これと言うのは現実の問題なんです。現在抱えておる様々な問題もです、ああ難儀な事であると思うておったのが、これも神愛の現れである、神様の御都合に違いはないと、それを合掌して受けれれる信心。ね。その事に対してもお礼が言えれる信心。
まあ愈々真はそのように育って行く物。真とはそのように、そのまあだまだ限りがない。お礼を申しましても、お礼を申しましても、お礼の足りないお詫びばかりをしておりますと、三代金光様が言うておられるような、そういう高度なところにまでも、限りなくその心が進展して行くのでございます。私が最高の心、それこそ紫檀やらも、ね、木炭じゃなかった、何じゃったろうか。
ははっは。黒檀、黒檀、ようにとる。紫檀やら黒檀やらね、いわゆる花梨やらと言うような木を求めておる。しかも、そういう、ここまでです、作り上げて行く物を、今では求めておるという事が分かります。で、その木だけではない。その心から生み出されてくるところの、様々なおかげという物がです、どのような様々なそれこそ千変万化様々な形におかげとして現れて来る。
私は今日、私、奥の部屋に参りましたら、私の部屋もうあのこちらの六畳の方に私の布団がやってあります。もう、とにかく六畳の間は豊美の花桶でいっぱいなんです。ね、茶の間に参りますと、茶の間がまたいっぱいなんです。ね。そう言う様なね、様々な形に現れ、私の、もうより有り難い心、より美しい心。ね、よりお礼を申し上げさせて頂く、お礼の心というものがです、ね、
そのような形に現れておるのでございます。ここで皆さんがおかげを受けておるのも然りであります。私の、その最高の木を願っ、現在は最高の木とは思われませんけど、最高の木を求めての信心。ね。最高の心を求めて。ね。それが有り難いという心であり、お礼を言う心。真とはお礼を言う心。その心を育てて行くという事が信心だというような、明確な御理解でした、今朝の御理解は。ね、
ですから、その有り難うございますという真は皆が持っておるんだけれど、それをね、何かの調子にすぐ枯らかしてしまう。またそれを、それこそようやく真の芽が出たのに、それを、すぐ惜しい事に摘み取ってしまう。花も咲かせず、実も実らせずに摘み取ってしまう。そこで、信心はいつもいつも、同道回りだという事になって来るのでございます。私共の願いとするところがです。
ですから、どうぞ一つお互いがね、真と真ということは、もう金光様の信心の、仏教で言うところの慈悲にも当たるでしょう。ね。キリスト教で言う、愛の心にも匹敵するでしょう。お道で言うその真とはどういう事かと言うと、お礼を言う心。しかもそのお礼を言う心を、私共が育てて行くという事が信心だと思い込ませて頂いて。私共の周囲いにあるすべてに物にお礼を言う心を、忘れてはならないということ。
今までは困った問題だと思うておった事にすら、よくよくそれを検討して行くと神愛である事が分かりますからそれが有り難いと、お礼を申し上げる事になる。そこで即その事もお礼を申し上げる対象だという事になる。どうでしょうね今日私さっきその日吉さんと話す時に、私の本当の願いをね、アンタに話そうち言うて話した事でした。私はね本当に合楽「ぼ?」その何ち言うたかね・・・忘れた・・・ははバラダイス。ね、
いわゆるそのもう合楽天国を私は目指しておるのだと。私の本当の願いと言うのは。それにはね私は本当に、もう今まで私共が習ってきたそう言う様な物を振り切って、もう純粋な合楽の信心で行かなければいけない。さあそれはなら合楽の方達には言えるけれども、声を大にしては言えない。新聞に書いても今度の新聞にはちょっと、そんな事が書いてあったって言うのでもう「誠治?」がえらい。
若先生が心配してから、発送したつを心配しよりますもん。責任は私が取るけん大丈夫だと私は、まあ申しました事でした。というようにですね、それ竹内先生が書いておられる、もうそれこそ竹内先生があのように合楽を、の信心に機影しておられますから。その言葉の激しいあまりにですね、やはり扶桑な事になっておるような所も、やっぱないじゃないです。けれども、それでいいんだと、また事実なのだから。ね。
そして、目指す所は、本当に合楽天国を目指させてもらう。合楽に御神縁を頂いておる人達がです、本当にこれがこの世での本当の極楽であろいうと言うおかげを頂いてもらいたい。それには、私共が何と言うても、あれもおかげ、これもおかげであると分からせてもらう中になからなければならない。あれもおかげである、これもおかげであるという、本当の信者にならなければならない。ね。
その心にはです、それこそ私共が願わんでも様々な形の物がです、ね、最高の紫檀の水屋やら、タンスやらが、例えば集まって来る事になるでしょう。ですからお互いの願いがそういうですね、ところにおいての信心。目先のこの事が一つ成就するようにとかね。この事がどうぞおかげになりますようにと言ったような物じゃいけん。そういう正しいおかげを頂きながらです「神縁?」な神様のお計らいという物をです。
先程の久富さんのお話じゃないけれども、あのような火傷をしながら痛まないという不思議をまず感じて。かと言うて、神様の心にちょっと離れようとすると、もう一晩中痛んで休まれなかったというような現実をですね、私共がもっと本気で直視しなければいけない。どこにその思いがあるのかという事、神の願いという物が。富永さんとこのご主人が乗っておられる自動車が、あれはもうどのくらいになりましたかね20日ぐらいになりますか。二週間、二週間前に盗られなさったんです。
この頃、私も驚きますね。とても自動車を盗る泥棒がおるなんて、昔はやっぱし牛泥棒ていう、馬泥棒ちゅうとがおったですからね。やっぱ、そげなっちゃろうと思いますね、今自動車を盗りよっとは、ははは。もう昔の馬泥棒んごたっとでしょうね、きっと。それが、届けられました。届けれっていう事であったから、すぐ届けられました。そしたら、一週間出らんなら諦めて下さいち言わっしゃった、警察の方で。
もう一週間出らなかったら、もう改代してしもうて、どこへどげんなっとっちゃ分からんち言うんです。ところが一週間たっても、出て来んもんじゃから、もう先生、自分の足を盗られたごたるけん、二回電話掛かって来た。また新しく買わせ頂いてよかじゃろかって、まぁ一時辛抱しなさいと言って二偏、私断った。断ったと言う訳じゃなかばってん、ははは。まあ、そげん言うちから私が申しました。んなら主人ににそげん申しましょう。
修行と思うて歩きなさいち申しましょうという事で、電話を切ってあった、切っておりました。で、昨日でした電話掛かって参りました。先生おかげ頂きました、自動車が出て来ました。もう、それはもう、見るにも無残な格好で出て来たそうですよ。そのガラスは割れてですね、中の物は全部盗られてしもうた。それは後で気が付かせて頂いたち言うてまた電話が掛かって来ましたもん。
そしたら、先生、御神米だけがちゃあんと残っとったげな。そこであのお伺いをされましたがもうそれこそあの、全部言われん先に新しい新車と替えるようにという事でした。何遍伺ごうても買うちゃならん、まあ待ちなさい、まあ待ちなさいち。そしたらもう本当に自動車が出て来たらですね、新しいのと取り替えて頂くようなおかげが頂ける事になって来た。そういう中にでもですね。
私共はそういうおかげを頂きながら、もう神様っちゃ恐れ入ったお方じゃなあと言うて、そのおかげんところだけに恐れ入らずに。その買うなとか待てとかという神意の深さを一つ悟らにゃいかんです。その深さを私共が頂いて行かなければ、信心、ただそれが、自動車が出て来たという事だけがおかげじゃない。その事によって、一段と深さが出来てきた、その信心が有り難いのである。
だから、この次、よし自動車を盗られたっちゃです。その時、おかげを頂いて、有り難いというお礼お届けになって来るだろうという事になるのです。おかげを頂きまして、なら百万の自動車を買わせて頂いて、百万の自動車が盗られたのが、百万のおとり祓いを頂いて有り難いと。即、その事が即おかげとして、もう災難じゃないのだ、おかげなんだと、これに実感出来たら、もう貴方は極楽に行っとるとと同じ事なの。ね。
そういう境地にです。おかげが無尽蔵に限りなく頂ける事を、私は信じます。ね。今日の、今朝の御理解をもう一遍申しますと。ね。真とは、真一筋でとお道の信心では申されております、その真という事は、お礼を言う心だと。ね、そのお礼を言う、そのお礼心を育てて行くという事が信心だという事。だから、その信心を育てる為にはどのような育て方が必要であるかという事が共励される。
はあ信心ちゃ難しかと言やあ、やはり難しか。育てる事が難しか。ところが、信心っちゃあ面白い、信心とは楽しいという事になってくりゃあです。これが育って行く事の楽しみという物がです、面白さという物がです。信心を、それこそ今日の日吉さんが言うように、私はちいっと信心にぼうけすぎるとじゃなかじゃろうかち思いますち。若いモンの癖に、私がもう、本当嫁ごもらわにゃならんとに、何時までん断らんの。
それけん私が、とてもあの人金光様にぼうけてござるけんでち言うごたるこつが、信心縁談のくずるる元じゃなかじゃろうか。そげな事っで崩れるても、どげな、どがしこ崩れたっちゃ良かばいと私が申しました。ね。おかげは絶対。もう先生、その一言を聞いて、私はこれからまた、本気で信心が出来ますと日吉さん言うとるです。ね。ですから本当にですね、私共のその、そういう焦点を間違えないでの信心がです、ね。
極められて行くという事にです、一つ楽しみを感じる、面白さを感じる。それが育って行く事の有り難さという、面白さという物を体験させて頂けれる信心にならんと、信心がじゅつのうなる、朝参りが眠うなる、きつうなる。ね。そこから、私共の本当の、いわゆる、真で開けんはずはない、真は受けられないはずはないという、おかげを頂いて行きたい。家繁盛、子孫繁盛の道。金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰る。ね。言うならどういう道を教えて下さるか。
例えば今日、頂いたような道を教えて下さるのだ。だからその道を行じて行かなければ、家繁盛、いわゆる祝いめでたの若松様よというようなおかげになって来ない。家繁盛、子孫繁盛のおかげに繋がらないのでございます。ね。それを私共この世に実現して行きたいと思わせてもらう。このように極楽を作って行きたいとこう思う。ね。そういう願いの元にお互いの信心を進めてお出でられたら、信心がいよいよ楽しい事になって来るのじゃないでしょうか。
どうぞよろしゅう。